30歳になって結婚三年目を迎えて ※ひみつに追記
2012年10月30日 コラム コメント (8)別にいいんじゃない趣味なんだしと妻が話していたのはつい3ヶ月程前のことで、僕はそれを頬杖をつきながらそうかなあ、いやそりゃそうなんだけどそれ果たして良いのだろうかと納得のいかない顔で聞いていたのだけれども30という一つの節目を超えてしまったこの足をまじまじと見るにこれはいよいよふらふら遊んでられる足ではないなと改めて思う。
そのことになると夢中になって野原を駆け回れるのが趣味であって、僕はどうにも駆けまわる為だけに必死に野原を守っているように思える。
つまりそこはもう野原でなくてとっくにコンクリになってビルになってより大人な嗜好を持っていてもおかしくない場所であって、そして残酷なことに同年代の人間の殆どのそこはコンクリであるに違いない。
更にコンクリの人間たちはこう言うのだ。「まだ野原で駆けまわってんの」と。
そうしてしぶしぶ野原を潰す者もいればコンクリ人間たちを揶揄する者もいる。
それでも野原を駆けまわり続けるものは当然いて、そうした野原で駆けまわる者は主に三種類に分けられる。
首を捻りながら駆けまわる者と
何も気にせず駆けまわる者と
何も気づかず駆けまわる者だ。
何も気づかず駆けまわる者は本当に幸せだが、同時に不幸せでもある。
コンクリという世界を認識すら出来ない為、自分の世界が広がる可能性そのものを潰してしまっているからだ。少なくともこれは僕ではない。
僕は恐らく首を捻りながら駆けまわる小心者に分けられるだろう。
いや私ねえ実は気づいていてしかも変えなきゃいけないとは思ってるんです、思ってるんだけどなかなかねえデヘヘ、といった成長への意欲を免罪符のような形でひらひらさせながら今日も首を捻って駆けまわるのだ。
これは非常に卑怯だろう。他の野原の住人を卑下しているに他ならない。
かといってでは何も気にせず駆けまわる程の器を持ってはいないし、
それで良いとも思っていないのが僕という卑怯な人間である。
つまりそれは野原への未練とコンクリへの憧憬が混在していて、僕は3ヶ月前と変わらずその野原の土地を目の前に右往左往しているのだ。ちなみに隣の野原と逆隣の野原はとうの昔にコンクリ化しているとすればこれは確かに焦りが募る。
そして僕は知っているのだ、コンクリがいかに楽しい世界か。
意気消沈をしていると妻がでは何故野原とコンクリを半々にしないのかと問うてきた。答えは簡単だった。土地が狭いのだ。
つまり土地を広く持てる人間は野原だろうがコンクリだろうがどちらを存分に確立することが出来て、また当然のごとく両立も出来る。ところが土地が狭い人間はどうすれば良いかというと、狭い土地をどちらかに仕立てるか、もしくは土地を広げるかしかない。
しかしながらそう簡単に土地を広げることは出来ない。
何故なら、土地とは遊びに使う時間だからだ。
時間は自然の摂理として創出は出来ない。
故に、土地を広げるとはつまり他の時間を削ることだ。これは妻にパチスロに朝から並ぶ連中の楽しみを説明するのと同じくらい非常に難しい。
だからといって野原を一生駆けまわることが出来ないのも事実だ。
いずれはこの野原をコンクリに変えてしまわねばならぬとわなわなしていながら、今日はその日ではない恐らく明日もその日ではないと自分に言い聞かせて30年と1ヶ月と1週間を生きている。
僕は卑怯なので、おそらく野原を潰さないし潰すときにもちょっぴり残す気がする。それは駆けまわることは出来ないけれども、その草の面影を見て駆けまわっていた日々を思い出すのだ。
そういうのもいいのかなあと思いながら、
今日も僕はコンクリの街の中を野原の前でうろうろし、そして
妻に結婚記念日のメールを打つべくちょっとだけ立ち止まる。
そのことになると夢中になって野原を駆け回れるのが趣味であって、僕はどうにも駆けまわる為だけに必死に野原を守っているように思える。
つまりそこはもう野原でなくてとっくにコンクリになってビルになってより大人な嗜好を持っていてもおかしくない場所であって、そして残酷なことに同年代の人間の殆どのそこはコンクリであるに違いない。
更にコンクリの人間たちはこう言うのだ。「まだ野原で駆けまわってんの」と。
そうしてしぶしぶ野原を潰す者もいればコンクリ人間たちを揶揄する者もいる。
それでも野原を駆けまわり続けるものは当然いて、そうした野原で駆けまわる者は主に三種類に分けられる。
首を捻りながら駆けまわる者と
何も気にせず駆けまわる者と
何も気づかず駆けまわる者だ。
何も気づかず駆けまわる者は本当に幸せだが、同時に不幸せでもある。
コンクリという世界を認識すら出来ない為、自分の世界が広がる可能性そのものを潰してしまっているからだ。少なくともこれは僕ではない。
僕は恐らく首を捻りながら駆けまわる小心者に分けられるだろう。
いや私ねえ実は気づいていてしかも変えなきゃいけないとは思ってるんです、思ってるんだけどなかなかねえデヘヘ、といった成長への意欲を免罪符のような形でひらひらさせながら今日も首を捻って駆けまわるのだ。
これは非常に卑怯だろう。他の野原の住人を卑下しているに他ならない。
かといってでは何も気にせず駆けまわる程の器を持ってはいないし、
それで良いとも思っていないのが僕という卑怯な人間である。
つまりそれは野原への未練とコンクリへの憧憬が混在していて、僕は3ヶ月前と変わらずその野原の土地を目の前に右往左往しているのだ。ちなみに隣の野原と逆隣の野原はとうの昔にコンクリ化しているとすればこれは確かに焦りが募る。
そして僕は知っているのだ、コンクリがいかに楽しい世界か。
意気消沈をしていると妻がでは何故野原とコンクリを半々にしないのかと問うてきた。答えは簡単だった。土地が狭いのだ。
つまり土地を広く持てる人間は野原だろうがコンクリだろうがどちらを存分に確立することが出来て、また当然のごとく両立も出来る。ところが土地が狭い人間はどうすれば良いかというと、狭い土地をどちらかに仕立てるか、もしくは土地を広げるかしかない。
しかしながらそう簡単に土地を広げることは出来ない。
何故なら、土地とは遊びに使う時間だからだ。
時間は自然の摂理として創出は出来ない。
故に、土地を広げるとはつまり他の時間を削ることだ。これは妻にパチスロに朝から並ぶ連中の楽しみを説明するのと同じくらい非常に難しい。
だからといって野原を一生駆けまわることが出来ないのも事実だ。
いずれはこの野原をコンクリに変えてしまわねばならぬとわなわなしていながら、今日はその日ではない恐らく明日もその日ではないと自分に言い聞かせて30年と1ヶ月と1週間を生きている。
僕は卑怯なので、おそらく野原を潰さないし潰すときにもちょっぴり残す気がする。それは駆けまわることは出来ないけれども、その草の面影を見て駆けまわっていた日々を思い出すのだ。
そういうのもいいのかなあと思いながら、
今日も僕はコンクリの街の中を野原の前でうろうろし、そして
妻に結婚記念日のメールを打つべくちょっとだけ立ち止まる。
コメント
何かいろいろ考えさせられます。
耳が痛いような気がするのは何故でしょうかね?
>更にコンクリの人間たちはこう言うのだ。「まだ野原で駆けまわってんの」
そう言いつつ、どこか羨ましく思っていたりも…。
もしよろしければ、追記も拝読したいです。
相互いただけると嬉しいです。よろしくお願いいたします。
ひみつですが、全然大したこと書いてなくて
つうか妻自慢ですのでホント恐縮です。
相互いただきました。
自分はまだ高校生なので偉そうなことは言えませんが、
妻と二人で遊べるくらいの野原は残しておいたほうがいいですよ^^
「野原とコンクリート」
価値観は人それぞれで、CHANGさんと奥さんがいいと思うのなら、野原は野原のままでいいのだと思います。
自分自身をきちんとわかっているのなら、「卑怯者」でいいと思います。
生き方は人それぞれ、正解はありません。
他人の価値観にとらわれることはないと思います。
CHANGさんの人生はCHANGさんのものですし。
お時間があるようなら、YouTubeででも、AppleのJobsのスタンフォード大学でのスピーチを見てみてください。
なんか偉そうにすいません。
僕も追記読ませていただきたいです。よろしければ相互リンクいただけると嬉しいです。
理解のある奥様で羨ましいです。
野原とコンクリート。深いい話ですな~
私は、コンクリの隙間に狭い野原を作ろうというスタンスですが、どうも比率が逆転して野原ばかりになってしまいます。笑
>ひみつ
御馳走様ですた(笑
今後ともよろしくお願いたします。
何かしらの答えが欲しいわけではなく、
みんな何かしら悩んでたり解決してるんだなあと
それだけなのです。
ブログって本来こーゆーもんかな。
つうかこれは本ブログのほうに書くべきでした。
あっちゃあ☆(30歳のスーツの男が舌を突き出すおぞましい表情を見せながら)
>Nさん
リンクいただきました。